ニュージーランドのトランスジェンダーアスリートがオリンピックの女子重量挙げで競うことはフェアなのか?アンフェアなのか?という声があがっています。

つい先日、テレビで放映されていた水泳のオリンピック予選。男子と女子の泳ぎではそのダイナミックさが異なることは明らかだったと思います。

なぜ二択?

トランスジェンダー選手の部門を新たに設ければ、競技もフェアに行われるのでは?と感じる人もいるでしょう。オリンピック選手のレベルではなくとも、日常に何かスポーツを取り入れている人であれば、身体的に性別の違いはないと言ったら嘘になるという見解に同感の人もいるはず。

何もキャンセルする必要はなく、新たに部門を作ればポリティックス抜きに、トップクラスのプロアスリートたちの努力と才能だけに集中して観戦を楽しめるのでは。どちらにせよ、これまで必死に頑張ってきたアスリート達のために、可能な限りフェアに競技に挑める環境であって欲しいと思います。

ワンストップショップ

何でもかんでもワンストップショップ感覚が通常になっていると、アスリートにまでトップクラスのアスリート+アルファの何か、つまり人として共感できる別の要素を期待する人々が増えているのかもしれません。また、人の在り方と行動の方が言葉よりも強く響くことは多々あると思いますが、何でもスペルアウトされている方が明確と捉える人が増えているのかも。個性の尊重を重視するのであればワンストップショップ的な考えはある意味レイジーとも見て取れそう。

Takeaway

Equalityを望む上で考慮する点は色々ありますが、まず双方の違いを認識し、どう歩み寄れるか頭を使って考えるといった面倒なプロセスを省くことはできないはず。

違いを認識することが卑下ではないとした場合、どちらにもそれぞれの素晴らしさがあることに気づくはずです。最近頻繁に使われる「diversity」という言葉は、基本的にそのポイントを掴んでいると思うのですが、このスポーツの例をとっても、応用例はどうもそれから外れているような気がしてなりません。